第九が初めて演奏された町「板東俘虜収容所」跡を訪ねて 第九の故郷板東町とドイツ兵

総力取材!我が国で最初にベートーベン第九が演奏され、歓喜の歌が歌われた町 板東


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徳島から少し離れたところにドイツ所縁の地があることを知っておられる方は多いと思います。この地をもとに繰り広げられた物語りは多くの本となり、映画となりました。二次の世界大戦ではドイツが日本と同盟を結びましたが、ここ徳島の地で起きたことが、少なからず影響した…といったらどうでしょう。言い過ぎかもしれませんが、ドイツの国民の感情に少しは残っているのは間違いではないでしょう。

これまで何度か徳島の旅の中で、いつかは所縁の地を撮影したいと思って色々と下調べをしていましたが、この度漸くその地を訪れることができましたので漸くご紹介できることになりました。

文章が長くなるかも知れませんが、もしよかったら最後までお付き合いいただければ幸いです。

徳島とドイツ、この両国の結びつきの物語りの時代は、第1次世界大戦まで遡ります。数年前に公開のこの地でロケした公開の邦画をご覧の方は、この物語りはよくご存知のことでしょう。

 では時代背景から、はじまりはじまり…。

明治維新から48年、一次世界大戦下、日英同盟を結んだ我が国は、ドイツに宣戦布告しました。
折りしも大日本帝国陸軍は、青島を租借地にして極東の本各地としての軍港を建設していたドイツ軍を攻略し、この戦いに勝利し青島は再び日本軍の占領下に置かれました。結果、5千人ものドイツ軍人が捕虜となり、彼らは九州や名古屋など国内数箇所の収容所に移送されました。余談になりますが、我が大日本帝国陸軍は、戦争末期に参戦し、いわば後出しジャンケンのような形で勝利しました。ここでは触れませんが、いつかご紹介したいと思っています。

今回訪れた徳島の板東(地名)にも俘虜収容所が出来、ここへは約5千人のうち最大級の千人もの捕虜が送られてきました。ただ、他の収容所とは少しだけ異なり、我が国の収容所の中でここ板東は、俘虜収容所所長であった会津藩出身の松江中佐(東映映画「バルトの楽園」で松平健さんが演じた)の信念によって、捕虜を尊厳を持って扱い、当時アメリカからも絶賛されるに至る特別な捕虜の扱いがあったのです。

松江中佐は、同じ人間として捕虜に接し、有刺鉄線は収容所の周りにあっても入り口は開いており、地域住民も比較的自由に出入りができたようです。収容所の中にはパン工場や図書館、収容所の前にはフットボール場やテニスコートなどの諸施設もあり、酒保(売店)も開かれ、捕虜達は楽器も調達でき、新しい捕虜の到着時はオーケストラの演奏を行って、歓迎していました。収容所入り口、入って左側にはボーリングレーンの設備もありました。なんと収容所内だけのドイツ語新聞まで当時の最高技術をつかって発行されていました。こういったことが出来たのは、捕虜となった兵達、職業軍人ではなく多くは徴兵された方々だったからでしょう。

松江中佐は彼らの能力を日本の力にしようと考え、一部の軍部の考えや指導を無視し、板東の人々との交流を許可しました。結果、捕虜達は母国ドイツで軍人になる前の多くの技術を板東の人々に齎らしました。ドイツのパンやウイスキーやワインやハムソーセージの製造ほか、その当時では最先端といえるような事柄が種として、この板東の地に蒔かれました。
一番有名な伝説が、日本で始めて開催されたクラシックコンサートであり、坂東がベートベンの第九が我が国初めて演奏され、歓喜の歌を歌われた最初の地となったことです。

ではなぜ我が国の収容所の中で、ここ徳島の板東だけ自由度が高かったのでしょうか。
所長であった松江中佐の出身地におおいに関係します。中佐は幕末、明治維新前、最後まで徳川幕府に味方し薩長を中心とした新政府に抵抗した会津若松藩の藩士の出でした。幕府が倒れ新政府になると破れた会津若松藩は蝦夷へと追いやられ、草木も育たない極寒の地を切り開きました。負け犬として人々に蔑まされ大変な苦労の末、漸く公職にもつけるようになりましたが、そうした苦労を知っている中佐には敗残兵の気持ちをよく理解し、負けた国の捕虜といえども同じ人間として尊厳を持って扱ったものと思われます。

                ●板東俘虜収容所所長 松江中佐
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こんなエピソードも残っています。ある日捕虜達は近くの海で泳いでおりました。これを知った軍の上層部は激怒して、中佐を呼びつけ捕虜に対して何事かと厳しく追及したそうです。このとき中佐は平気でこう答えたそうです「海でみんなが足を洗っていた際に、何人か気持ちがいいので海に浸かったのでしょう」その後、当収容所の海水浴は捕虜の間でも足洗い大会と呼び楽しんだそうです。
地元の農民は彼らからドイツの技術や伝統を学ぶだけではなく、交流を通じて反対に彼らに徳島の伝統も教えました。収容所が開放され彼らが祖国に持ち帰ったものも多く、例えば繭(蚕)の生産や藍の染めの技術などです。

こういった捕虜と地元の人間たちとの交流や残した数々の実話やエピソードが世に伝わり広く知れ渡ったのは、すでに第2次世界大戦も終わって我が国が敗戦をむかえた2年後のことでした。
板東の地で当時日本中に猛威を振るったスペイン風邪などで命を落としたドイツ兵のお墓を、地元の老婆がずっと守ってきたことが、昭和35年の徳島新聞に記事となりました。この記事が発端となってドイツの大使館に伝えられ、ドイツの方々が板東のドイツ墓所に慰霊にやってくるなど、これをキッカケとして板東の人々との交流が再開しました。板東の収容所近くにはドイツ館が建ち、今でも友好都市提携など交流が続いています。

1917年の開設以降約3年たらず、捕虜収容所を開放され自由となったドイツ兵士は敗戦の祖国に戻ったものもいれば、そのまま我が国に残った者も多数おり、残ったものは各地で彼らの多くの技術を伝えました。例えば、今に伝わっているのものとして、敷島製パンがあります。ここの創業には、元捕虜の製パン技師が深く関係しています。その他ハムなどの技術者も現在大変メジャーとなったメーカの創立に携わり今の発展の基礎と為しました。
頭でも書きましたが、第一次大戦では我が国と戦い敗戦となったドイツ軍は、今度は第二次大戦の際、我が国と同盟を結んだことは皆さんご承知の事柄ですが、第一次大戦時に受けた我が国の捕虜への尊厳を持って扱った対応がドイツ国民によい印象を与え、同盟に少なからず影響したことは確かでしょう。これは私個人の見解ですが。

映画「バルトの楽園(がくえん)」(監督:出目昌伸)は、板東における第一次大戦下のドイツ人捕虜と日本人との心温まる交流を描き、現代の人々にと地元の人々との国境を超えた友情があったことを紹介し、映画を通じ多くの人が事実を知り第一次大戦当時の思いを新たにしました。映画は全国に放映された後、実際の収容所から数キロの場所にあった映画のロケ地収容所のセット(約2億の建設費をかけた)を数年間一般公開しました。公開の継続を強く望む人々が多くいましたが、公開約束の期限の1~2年延長後、このロケ地は解体されました。近年となって、収容所近くに立派なドイツ館が建ち、我が国で最初に第九が演奏された地として、道の駅として多くの観光客が訪れるようになりました。

板東の収容所跡は、現鳴門市で鳴門の町から少し山にはいった主要道路から少し離れたところに位置していました。
収容所跡は、すでに半分が住宅化し県営住宅が立ち並び、半分だけ更地が残っていました。当時の面影を探すと、少し山に近い場所に、パン工場のあった土台や捕虜達の大切な水を蓄える貯水槽を見つけることができました。古いコンクリートの崩れた建物を見つけ、悦んで入ってみますとそこは戦後観光地化された際に建てられたトイレでした。実に雰囲気の悪い怖そうなトイレの様相で、ここは早々に立ち去りました。映画公開当時のブームも去って、以降放置されたままになってしまっているのでしょう。人を全く怖がらない蝉達ちの鳴き声が耳に突き刺さるようです。よくみると、木々の側面は1メートルくらいの高さからびっしりとアブラ蝉がしがみ付いていました。カメラを近づけても飛び去る奴はいません。彼らの祖先は、ここでドイツ兵と遊んだに違いありません。

捕虜の暮らした建物を‘バラッケ’と呼んでいます。バラッケは収容所の閉鎖後は、戦後満州あたりからの引揚者の宿舎で使用、その後は牛舎として、その後解体され、地元の農家に払い下げられ、倉庫などに再活用していました。道の駅の土産物屋は古びた校舎のようですが、この建物自体、実は本物のバラッケです。本当の収容所で使った兵舎のひとつが戦後解体され民間に払い下げられたものが最近になって発見され、収容所に近い当地へ移築された当時の物です。

またまた余談ですが‘板東’って、今でもよく耳にしませんか。‘板東英二’かつての野球の名選手(中日のピッチャー)であり、最近はバラエティにもよく出演しているタレントの板東英二氏の育った町なのです。しかも彼は戦後生まれた旧満州国を離れ、父親の故郷ここ板東の元捕虜収容所(戦後は引き揚げ者用住宅となっていた)のバラッケで過ごしました。

この度の徳島,板東紀行…訪れる前にもっと勉強しておけばよかったと反省しきりです。本物のバラッケを使ったバラッケやドイツ軍兵士を祀った慰霊碑など、肝心なところが写っていません。帰ってから、ここ収容所を舞台とした映画(DVD)をレンタルしたり、数冊の文献に眼を通したこともあって、肝心な彼方此方が写っていなかったのです。残念!

板東の地元の方々とドイツ軍捕虜達の交流…言ってしまえば、ただそれだけのことですが、大正期から今に至る歴史の中で、今に繋がる多くのことを今回の紀行で学ぶことができました。長時間の編集を終え、アップし終えた今、改めてホッコリとした気分に浸っています。

拝啓松江中佐殿、生まれ変わって、今の政治家にひとことアドバイスをしてやってください。被災者の方々への接し方,対応が変わってくるはずなんですが…

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                  ↑バラッケの土台
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                  ↑収容所内のパン工場跡。彼らは自炊も行なっていた。


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                  ↑給水設備(当時のまま)
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                    ↑近づいても知らんぷりの蝉たち

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                    ↑観光客用に近年に建ったものとは思えないトイレ遺産?

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   ●●●収容所近くのドイツ館と道の駅「第九の里」へ



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        ↑歩き遍路さん。私がここに訪れた約40分の間、このお遍路さん、
          ズッとこのまま、何か考え事をされていました。
          近づくなオ^ラを強く感じ、お声がけもできませんでした。
          当方も、いつか八十八箇所めぐり、車ででもやってみたい。

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※以上、徳島の板東紀行でした。当方の聞きかじった浅い知識で文章構成していますので、誤った記載が
多々あるはずです。DVDや多くの図書が発刊されていますので、もし当方のBlogでご興味が沸かれましたら正しい知識をそういったところから吸収いただければと思います。
長文、おつきあい有難うございました。

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この記事へのコメント

かずちゃん
2012年12月01日 09:52
初めまして。
旅行で板東俘虜収容所の説明を
ドイツ館で聞いて、ほんの少しだけ
その当時の現場を。
ネット検索、タイムリーな記事が。
無断でリンクさせていただきました。
申し訳ありません。
私のブログ掲載記事は
http://kakese.blog.so-net.ne.jp/

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