あやめの前終焉の地 小倉神社傍 あやめの前宝篋印塔
当サイトは、安芸国賀茂郡(東広島西条)に伝わる源頼政の側室、菖蒲御前(あやめの前)の伝説地写真紀行の本文のサブサイトです。
◆参考までに本文のURLは、
http://hiroshimakagura.at.webry.info/201707/article_1.html
あやめの前終焉の地 小倉神社傍 「あやめの前宝篋印塔」
息子、水戸新四朗と暮らした、二神山城が落城し、郎党30人と逃げ暮らした小倉山の小倉大谷(曾場ヶ城山)。
死期を覚ったあやめの前(西妙尼)は、現在里人が建てた小倉神社の側に、小さな庵をつくり、
頼政の母手作りの篠笛をもって庵に籠りました(洞穴に籠ったとのブログもあり)。
食を絶ち、亡き頼政や家臣たちの菩提を弔いながら笛を吹き、6日目に笛の音が途絶えました。
あやめの前、終焉の地に立派な宝篋印塔を、供養の里人が建設しました。
後を追った家臣たちの墓も、あやめの前の宝篋印塔の周りに祀られています。
墓地は、小倉神社本殿の右手の細い山道を、10分くらい上ったところにあります。
ひっそりとして、撮影は晴天のお昼ごろでしたが、周りより一段と暗く湿気の多い場所でした。
趣味で城主など著名な古墓を撮影する際は、いつもはパチパチとうきうきしながらシャッターを
切っていますが、流石にここの墓所だけは、頭を下げ手を合わせ早々に神社に戻りました。
30数基の郎党の墓の多くは埋もれかかっており、墓所の中は通路がないため、埋もれた墓石
の頭を踏みながらの撮影移動でしたので、いつ地面から手が伸びて、私の足をひっぱってくるか、
気がきではありませんでした。…ホント
宝篋印塔には真新しい生花が供えてありましたので、
今だに近所の方々が守っておられるのでしょう。
あやめの前の家臣団の墓とされている五輪塔
家臣団三十数基の墓群
笛の音の絶えなば一期と菖蒲前 土中ふかくをこもりしと ああ
◆参考までに本文のURLは、
http://hiroshimakagura.at.webry.info/201707/article_1.html
あやめの前終焉の地 小倉神社傍 「あやめの前宝篋印塔」
息子、水戸新四朗と暮らした、二神山城が落城し、郎党30人と逃げ暮らした小倉山の小倉大谷(曾場ヶ城山)。
死期を覚ったあやめの前(西妙尼)は、現在里人が建てた小倉神社の側に、小さな庵をつくり、
頼政の母手作りの篠笛をもって庵に籠りました(洞穴に籠ったとのブログもあり)。
食を絶ち、亡き頼政や家臣たちの菩提を弔いながら笛を吹き、6日目に笛の音が途絶えました。
あやめの前、終焉の地に立派な宝篋印塔を、供養の里人が建設しました。
後を追った家臣たちの墓も、あやめの前の宝篋印塔の周りに祀られています。
墓地は、小倉神社本殿の右手の細い山道を、10分くらい上ったところにあります。
ひっそりとして、撮影は晴天のお昼ごろでしたが、周りより一段と暗く湿気の多い場所でした。
趣味で城主など著名な古墓を撮影する際は、いつもはパチパチとうきうきしながらシャッターを
切っていますが、流石にここの墓所だけは、頭を下げ手を合わせ早々に神社に戻りました。
30数基の郎党の墓の多くは埋もれかかっており、墓所の中は通路がないため、埋もれた墓石
の頭を踏みながらの撮影移動でしたので、いつ地面から手が伸びて、私の足をひっぱってくるか、
気がきではありませんでした。…ホント
宝篋印塔には真新しい生花が供えてありましたので、
今だに近所の方々が守っておられるのでしょう。
あやめの前の家臣団の墓とされている五輪塔
家臣団三十数基の墓群
笛の音の絶えなば一期と菖蒲前 土中ふかくをこもりしと ああ
この記事へのコメント
雨は大丈夫ですか?
安芸の様子をTVニュースで見ました。
楽しいお時間をつなぎ合わせて下さいね。
テレビで大変なご様子と承っておりますが、
いかがお過ごしでございますか。
sisi様、お身体に気をつけて、
乗り切っていただければと思います。
お邪魔いたしました。