安芸.石見地方神楽紀行

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help リーダーに追加 RSS 千石船が帆を休める潮待ちの港町『大崎・御手洗』釣り紀行 …江戸時代にタイムスリップしてきました…

<<   作成日時 : 2008/12/02 05:08   >>

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安芸灘諸島 豊島、大崎島に釣りに出かけました。
 週末誘われて、瀬戸内海の倉橋島、江田島周辺の筏に釣り(牡蠣筏に小船をロープで結わえて釣りをする、かかり釣りという瀬戸内海独特の船釣り)に行く予定でした。釣行前夜、天気予報は海上1.5Mの波でしかも一部強風注意報がついていました。急遽夜の内にキャンセルを決定。ところが翌朝早く目が覚めて、夜が明けきる前に自宅の外に出てみますと、全くの無風状態でした。キャンセルはしたもののやっぱりお魚さんのお顔を拝見したくって、思い立って釣り支度をしてしまいました。行き先は?いつもきままな一人旅。釣りとカメラ撮影を兼ねて「安芸灘とびしま海道」に決定しました。安芸灘とびしま海道は、8つの橋梁(総延長約5,300m)で構成された安芸灘諸島連絡架橋でつながった、本州の呉市と広島県豊田郡大崎上島町を結んだ道です。遠い将来は、愛媛の大三島に繋がり、そこから表のしまなみ海道に繋がって、四国に至る、四国への4つめのルートが出来上がるみたいです。この安芸灘とびしま海道は、つい先日(11月18日)に開通した上蒲刈島〜豊島間の豊島大橋によって、本州から瀬戸内海の真中あたりの安芸灘諸島(愛媛県の県境迄)が一つに繋がりました。したがって、これまで豊島や、今回の最終目的地の大崎下島へは、本州からフェリーや高速船の海路しか方法がありませんでした。大崎下島には、まだ陸上交通より海上交通の方が便利だった明治の始め頃までは、千石船が風待ちや潮待ちで立ち寄る港町があり、当時はそうとうな賑わいでした。その港町が大長みかんで有名な大長地区に隣接した、「御手洗」です。御手洗は、国の重要伝統的建造物群保存地区(平成6年指定)がある『潮待ち、風待ちの港として藩政期に栄えた港町』です。幕末時代の七卿落ちの屋敷とか坂本竜馬の御手洗条約を交わした家とか、秀吉の四国統一の拠点とか歴史的史跡が沢山残っています。明治をむかえ陸上交通の発達と共に海上交通が衰退して行くにつれ、 この港町の勢いも徐々に衰退して行きました。潮待ちの港としての機能が失われた後、最盛期の明治初期の状態のまま凍結された、あたかも日本のボンベイです。逆に考えると、今レトロな街並みとして脚光を浴びているのも一次時間が止まってくれた(町が廃れ発展しなかった)お陰げかもしれないなと私は思っています。現在、御手洗には3百人弱のほとんど後期高齢の住民が、産業のみかんや漁業で生活されています。歴史的な建造物(船宿や商家)は昭和の後半くらいまでは子孫の方が生活されていたようですが、今は多くが空家状態で、つい先ごろまでは中を見学できていたものが、傷みが激しく見学禁止になってしまっていたのも散見されました。豪商の家や御手洗に倒幕の際に立寄った高杉晋作らが遊んだといわれる遊郭も外見しか見ることができませんでした。御手洗という地名が、歴史の表舞台に登場したのは、延暦元年(901)、菅原道真公が藤原時平の陰謀によって九州は大宰府に左遷させられ流される途上、この港に寄港して、天満宮の井戸で手を洗ったことから、この地が御手洗とよばれるようになった(パンフレットより)くらいに遡ります。その後も、将軍が代わる度に朝鮮や琉球からの使者がお祝いに訪問の前に訪れ休息したり、秀吉が四国を統一する際に、城造り名人の加藤清正に命じて、御手洗に四国征伐の前線基地(城)を築いたり、幕末の京都蛤御門の変の際、三条実美ら七卿が京都を離れ、長州へ流転の下向中ここへ身を寄せたり、[広島藩(芸州藩)が長州と手を結んで、倒幕長州藩と広島藩が倒幕のための条約(御手洗条約]を結んだり、坂本竜馬、中岡慎太郎、大久保利通ら勤皇の志士達をはじめ俳句の小林一茶、シーボルト長崎商館長、吉田松陰、が訪れたなどなど話題に事欠きません。歴史好きにはたまらない所です。
御手洗の対岸には岡村島(愛媛県)があって、天然の防波堤代わりです。静かな海峡に千石船が錨をおろし、波止は船宿が建ち並び、街中へ入ると神社や茶屋が建ち並ぶ、繁華な市街を為していました。必然的に、藩公認の遊郭が誕生し一時茶屋が四軒も並び(現存は若胡子屋のみ残る)御手洗遊女と呼ばれるプロの方が最盛期には一つの茶屋に百人くらいいたそうです。沖に泊まったオランダ船や参勤交代船団の人々や船員相手の遊女の「船後家」の商売が始まり、遊女らは小船で千石船に乗り付けては船員をねぎらいました。舟服の繕いや洗濯などのつとめを果す女性を船後家と呼び、この舟のことを「オチョロ船」とよぶようになったそうな。女性の哀史が綴られた街でもありました。兎も角、江戸時代にタイムスリップしたような狭い路地を歩いていると、遊郭に通う若き勤皇の志士達とバッタリと出会い挨拶をしてもおかしくない風情です。
 本土と陸続きとなって二週間目の日曜日、先日テレビでも紹介されたし、たぶんまだ車が多いだろうなあ、と予測して行きましたが、やはり狭い島の道は大変な混雑でした。本州の呉から片道700円の有料の橋「安芸灘大橋」を通ると、そこは下蒲刈島です。島の海岸をグルリと半周すると上蒲刈島を結んだ「蒲刈大橋」が見えてきます。ダラダラした風光明媚な海岸線を通りすぎるころには、日当たりがいい山の斜面は一面みかん畑です。この時期黄色いみかんと緑の木が運転で疲れた眼を癒してくれます。次が先日開通した豊島を結ぶ豊島大橋です。すぐに小さな漁港をまたぐ豊浜大橋が見えてきます。豊島を過ぎるといよいよ今回の最終目的地大崎下島に到着です。最初の安芸灘大橋以外はなぜか全部無料です。大崎までは何箇所か波止場に下りて、竿をだしました。豊島周辺でメバルを苦労して何尾か拾い上げて、御手洗の街並みに着いたのはお昼をだいぶ過ぎた頃でした。やはり駐車場は県内、県外ナンバーで溢れかえっていました。大型観光バスも2台きており、いたるところの名所旧跡でボランティアガイドさんを取り囲んで、撮影をしっかり邪魔していただきました。住んでおられる方からすれば迷惑な話です、古い建物を勝手に壊すわけにはいかないし、鰻の寝床のような極端に狭い間口の江戸時代の建物での生活で、休み毎に大量に観光客が押し掛け住居を覗き込まれるし、唯一の生活道路は混雑して移動もままならないし。迷惑がかかっている対価として、住民に成り代わって、合併した自治体に観光地住居手当ての支給を考えてもらいたいですね。それから、橋が出来て再び脚光を浴びた古い港町には、当然観光客の受け皿ができていません。トイレは海岸に数箇所(御手洗の御手洗)整備されていましたが、食べる所も皆無だし、みかん以外お土産も見当たらない。秋が過ぎてみかんが終わったらどうするのでしょう。まあ住民の方は殆んどが後期高齢の方々でいまさら金儲けもないでしょうが(失礼)。本土から金儲けを目的とした海千山千の魑魅魍魎の方々が押し寄せてこないか、人事ながら心配をしています。まあ、世間から隔離性がとけた今となっては時間の問題ですが…。数年後再訪したら、リゾートホテルに七卿落ち煎餅や御手洗万頭が並んでいるかも(笑)。撮影した画像に沢山写っていますが、彼方此方の軒先には、「簾に一輪挿し」と俳句や川柳のお出迎えがあります。お店のオバサンに訊ねると、あの一輪挿しは、町の女性グループ「重伝建を考える会」によるものだそうです。今や本土では考えられませんが、当地を訪れる方への「一期一会」の‘お持て成し’の気持ちかもしれません。そういえば花を撮影しながら四国巡礼のご接待を思い浮かべました。

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    ●安芸灘大橋 下蒲刈島側の白崎園です。左側の茶色い塔(モニュメント)は、「生」 土・火・知・空・水 
    をあらわし、手作りの陶板3500枚を張付けたものだそうです。昔から交流のあった中国大陸の土が使
    われています。



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   ●雲がオレンジがかって、まるで夕暮れのようですが、まだ早朝の朝日が照っている風景です。

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     ●大崎下島 風待ち、潮待ちの御手洗の遠景です。ここは、平成3年の大風19号で大打撃を被りま
      した。桟橋も見違えるように綺麗に整備され、完全に復興しました。しかしながら昔の面影というと…

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   ●古い御手洗湾の写真を見ると、「交易船」や「おちょろ船」などの和船で埋め尽くされていました。
     台風19号で打撃を被った和船大工さんは、すでに廃業され、今は浜の船宿跡(三軒長屋)で、おちょ
     ろ船の模型を造られています。その方は、次回第2編でのご紹介となります。

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   ●海岸のすぐ側の七卿(落ち)館から少し山手の方に進むと、大東寺という立派な寺があり、その裏
    手に満舟寺があります。
    満舟寺には琉球使節のが書いた扁額があります。朝鮮通信使と同様、琉球国も将軍の代替わりの
    際には、慶賀の使節を送ったようです。満舟寺の石垣は、秀吉が四国攻撃の時、城造り名人の加藤
    清正が築きました。戦国時代の城の特徴である「乱れ築き」の立派な石組みです。四国攻略の最
    前線基地だったのでしょう。ひょっとしたら、中世の小早川水軍の砦のあとかもしれません。境内に
    は立派な鐘撞き堂があって、ひとつ叩いてみました。古い街並みに美しい鐘の音が響きわたりまし
    た。紅葉が数本、暖かい地域なのでまだ紅葉には少し時間がかかるみたいでした。

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   ●このお墓は、満舟寺の隅にありました。亀趺といわれるものです。「きふ」と読みます。石碑の台石の
    が亀となっているのが特徴です。どこかでみたことがあるなあと考えると、以前中国を旅した際に、歴
    代の王や皇帝の史跡(墓地)で大量に見たことを思い出しました。近くでは、広島の平和公園の中に
    もひとつありました。調べてみますと、この形式の起源はやはり中国で、隋・唐の時代に流行したようです。
    江戸時代になって大名のお墓などに用いることが多くなったようです。当時の方は、文化の進んだ中
    国が憧憬だったのかもしれません。しかし、こんな片田舎の港で、亀趺を見つけるなんて、不思議な
    感じです。〔亀趺はパソコンの漢字変換してくれません。亀趺の趺は、あしの台とか足の甲という意味
    でした。〕 このお墓、よく観察すると、亀趺と屋根の部分の石の材質は緑がかっていっしょのようです
    が、中のお墓のサオにあたる部分は、広島などでよくみる花崗岩のようです。墓碑銘も「信士」さんで
    すから、一般の方のお墓(浄土真宗?)みたいです。なぜ、お殿様などお偉い方が用いた亀趺を、一般
    の方がつかえたのでしょう。なぞが深まるばかりです。ひょっとしたら、このお墓の部分は、後年、どな
    たかがさしかえたのかも…。実は、朝鮮からの使者の方が、この御手洗でお亡くなりになって同行の
    石工が造ったのかも…なんて想像し始めたら、夜も眠れませんネ。

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   ●今回も撮影枚数が多いので、次回第2編に続きます。いつになりますことやら。



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コメント(4件)

内 容 ニックネーム/日時
素敵な旅を、ブログを通して楽しませていただきました。
潮風と歴史が感じられ、気持ちが良いですね。
ありがとうございます。
続きが楽しみです★^^★
乱鳥
2008/12/02 23:04
モノクロ・・・・
モノクロにしてみたくなる風情がありますよね

そー言えば
ネクタイ姿のししさんとすれ違いましたよね
久しぶりでした。お元気そうでなにより。
ぜんべえ
2008/12/03 10:11
乱鳥様、いつもご来場いただいた上に、心温まるコメント、有難うございます。今回は文字が多くなってしまい、読みにくいBlogとなってしまいました。ご容赦いただければと思います。(調べるのに時間がかかりました)後半は、いつになることやら…。その間、神楽大会にも行ってきましたので、その編集も待っております。(いつ肝心なお仕事をやっているかって?実は平日は真面目に働き、家族には週末諦めてもらっております。家族公認紀行です。)先日、仕事で道を歩いておりますと、広森のぜんべえさんにクラクションを鳴らされてしまい働いているところを見られてました(笑)。
ししです。乱鳥様
2008/12/03 12:39
ご来場いただき有難うございます。先日は正直驚きました。マア、事務所が近いからお会いする機会も多いのでしょう。
御手洗や鞆や竹原や、江戸の香りが残っている街なみは素敵ですね。伝統の神楽に通じるものがあります。古い建物の中で、神楽を舞うのを拝見するのも素敵でしょうね。第2段も頑張って上げますので、再訪をお願いしておきます。しし
ししです。ぜんべえ様へ
2008/12/03 12:43

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