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風待ち、潮待ちの港 大崎下島・御手洗のシリーズの第2回目です。今回は、花魁の館と御手洗条約締結の館と菅原道真公ゆかりの天満宮と古い街並みの紹介になります。 御手洗の街角にて ●若胡子屋(わかえびすやあと) 昭和15年に広島県史跡に指定された江戸時代のお茶屋「置屋」です。 1700年代の最盛期(全盛期)には,百人以上の花魁(芸者や遊女)を抱えていました。 当地に4軒有った茶屋のうち、唯一若胡子屋跡が現存しています。1600年代の終わり には、 オランダ使節の記録に若胡子屋の名前が残っているそうです。1700年代に入 ると、茶屋として藩公認になり、 四国や九州のお殿様の参勤交代や朝鮮、琉球の使者 や北前船の寄港でたいへん繁盛しました。大名など格式の高い方への相手に芸等教 養を身につけた花魁が大切にされました。有名な花魁にもなると、名前が残っており神 社に狛犬等を寄付したものもあり今でもみることができます。遊女にもランクができ、芸が できない娘や器量の悪い娘は船員相手の一夜妻になったり、おちょろ舟の娼妓へ身を 落としたということです。御手洗には女衒ゼゲンを通じ、九州や四国から借金や質のかた に取られた女の子が集められました。ピークの幕末から大正、昭和の初期までお茶屋は 存続していたようですが、売春防止法、赤線廃止令が施行された昭和32年〜33年に完 全に消滅しました。戦後は呉の進駐軍相手として、彼女達は(影の)日本を支えてくれた のかもしれません。前編にも書きましたが、御手洗は「女性の哀史が綴られた島」です。 合掌 ●『夏草や 島に悲恋の 遊女墓』 ●『たのみます 華のこの世も 後の世も』 ●竜馬や慎太郎が訪れた「御手洗条約」締結の金子邸 ●御手洗条約締結の豪商「金子邸」 若胡子屋のま向かいに金子邸があります。金子邸は、慶応三年(1866)11月、御手洗条約が交わさ れた場所です。広島藩(芸州藩)は、第一次長州征伐の際は幕府の命で先鋒として駆り出されました が、第二次征長時には中立的な態度を取っていました。態度をはっきりさせていませんでしたが、幕末 終わりくらいに、薩摩と長州と手を握り討幕運動を進めました。慶応三年長州藩は軍勢を京都に上がら せるべく、軍艦を構成し、御手洗港に着きました。広島藩軍もこれに呼応して御手洗に集結し、当金子 邸にて倒幕の密約『御手洗条約』を交わしました。締結後、両軍は大軍団で京にのぼり、長州藩軍は 広島藩の軍勢に守られ攝津の西宮に上陸を果たし明治維新へと大きく踏み出しました。このよう に御 手洗は歴史の踊り場に再々に登場し、陰の舞台となっています。長州はもとをただすと、毛利のお殿 様ですから、出身は広島ですね。 金子邸は、当時の島の豪商で、役人を接待するところだったようです。狭い道を挟んで真前がお茶屋 若胡子屋です。 ●天満宮 延暦元年(901)、菅原道真公が九州は大宰府に流される際に御手洗に寄港して、当天満宮の井戸 で手を洗ったことからこの地が御手洗とよばれるようになったという言い伝えがあります。 天満宮には、 菅公が手を洗ったとされる井戸や碑がありました。この井戸の水で墨を擦って書くと字がじょうずになる そうです。この港をたった2年後の延暦3年(903)、大宰府で悲運の生涯を閉じてしまいました。 ●天満宮の神様がおられる真下にくぐれるトンネルがあります。このトンネルをくぐる際に、お願い ごとを考えながら通ると、お願い事が実現するみたいです。 ●菅原公が口をゆすいだ井戸 ●江戸の街並みの雰囲気を残す狭い道路と古商家の中の様子 ●まだまだ続きがあります… |
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