安芸.石見地方神楽紀行

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zoom RSS 源頼政側室 菖蒲御前(あやめの前)東広島西条・伝説地紀行【前篇】

<<   作成日時 : 2017/05/09 05:33   >>

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菖蒲御前(あやめの前) 東広島(安芸国賀茂郡)に伝わる伝説地写真紀行

あやめの前はとても美人であったせいか、国内には多くの伝承が残されており、全国の彼方此方で、あやめの前の供養塔や墓といわれる宝篋印塔などの石造物をみることができます。あやめの前を祭神と崇めた神社も確認できます。
そんな不思議な伝説をもつ、あやめの前の人生の後半の物語り‥…ここでは、
国内でも屈指のスケールで多くの伝承が残る、西國安芸の国、東広島に伝わるあやめの前の足跡を訪ねます。

【各伝承地は、このメインになるサイトから、サブのサイトで多くの写真を掲載していますので、ご参照ください】

                                あやめの前
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(1)はじめに

 石見神楽に「頼政」「鵺退治」「頼政鵺取り」という演目があり、これまでも当Blogにて紹介しています。
演目中鵺の役者が、『頭は猿の如く、身体は牛の如く、手足は虎もして尾は蛇に似たり。
我を名付けて鵺というなり。』という口上を述べます。
この演目に出演するのは、鵺を退治する頼政とその配下の猪早太と、鵺、その手下の小猿達ちです。
神楽社中の子供達が演じる数匹の猿の演技はとてもコミカルで、観客にアメを撒いたり、石見神樂の中では大変楽しい演目の一つで人気があります。
詳しくは、当過去Blogで紹介していますので、’鵺’(鵼)ぬえというキーワードで当Blog内検索していただければと思います。

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 さて今回ご紹介する主テーマは、二度の鵺退治で有名な「頼政」、そうです今から9百年も前の平家全盛の清盛時代に、源氏の家系にあって唯一国政に参加できる公卿の位「従三位」にまで昇進した「源頼政卿」(源三位入道頼政)のこと、
…ではなく、頼政の側室で当時三大美女と崇められた「菖蒲御前」(あやめごぜん・あやめのまえ)を取り上げ、あやめの前の後年の伝説地を探索していきます。


(2)平清盛全盛期の源頼政と、頼政のクーデター

 高校時代に真面目に日本史を学んだ方には、頼政が生きた1100年代の時代背景はよくご存じかと思いますが、少しここで簡単におさらいしておきましょう。

源頼政の家系は、摂津源氏系といって、後に鎌倉幕府を開いた源頼朝の河内源氏、清和源氏を源氏の主流とするならば彼は諸派にあたります。
頼政の4代前に、これまた石見神樂の演目で有名な、「源頼光」がいて、四天王を引き連れて大江山で酒呑童子の鬼退治を行っています。「大江山」という演目は、安芸の芸北神楽でも盛んに舞われており、当Blogでも何度も紹介しています。

 鵺退治という逸話で有名な頼政ではありますが、現実には「保元・平治の乱」でも活躍し、清盛に働きを認められ、その後源平の争乱のきっかけを作った良くも悪くも大変活躍した武将です。
武将ではありますが、歌人でもあり多くの歌を残しており、現代でも多くの頼政ファンがいて彼の足跡、墓所を訪ねるなど人気があります。
 平家の中にあって清盛に信頼された頼政でしたが、清盛が高倉帝を譲位させ、娘の徳子(後の建礼門院)添わせ、生まれた3歳の子を天皇に即位(後に壇ノ浦に身を投じた安徳天皇)させたり、院政を停止し法皇を幽閉したり、天皇の祖父として絶対の権力を握った清盛の横暴に耐えかねるようになっていました。

 頼政は、安徳天皇の即位の影響をうけ皇位継承の道から外され平家に不満を持っていた後白河法皇の子、以仁王(もちひとおう)にクーデターを働きかけ(異説では、以仁王が頼政に働きかけた)打倒平氏に立ち上がりました。

以仁王は、平氏打倒の令旨を諸国の源氏や寺社へと送り、これに呼応して頼政は挙兵しました。
これが世にいう「以仁王の令旨・頼政の挙兵」の乱です。

しかしながら準備不足は否めず、即座に清盛の耳に入ることになり、早々にクーデターがバレ、仕方なく滋賀県大津市の園城寺(三井寺と知られる・源氏とは歴代尊崇が篤く、頼政が挙兵した際支援した)へ立て籠もることになりました。
その後以仁王と源頼政は別々に夜陰に紛れ園城寺を脱出しました。

(3)クーデターの失敗、頼政自害

頼政は厳しい平氏の追跡を受け、宇治の平等院でついに平氏に追いつかれ、自刃して果てます。享年77歳でした。
当時、上級武士の首級は、切り取られ自陣に持ち帰られ首級検めが行われているはずですので、頼政の首は、終焉の地である京都府宇治市の平等院には残っていないと推測します。
頼政の首塚や墓は全国にみられ、平等院をはじめ家臣下河辺が首塚をたて祀ったという茨城県古河市の頼政神社、京都府亀岡市西つつじヶ丘の頼政塚、兵庫県西脇市の長明寺、猪早太が埋葬したと伝わる岐阜県関市の蓮華寺、千葉県印西市結縁寺(頼政首塚)にあると、伝えられています。(まるで首が8つの八岐大蛇伝説みたい)

 さて、頼政も以仁王も果て、クーデター「宇治平等院の戦い」は一見失敗のようにみえます。
しかしながら歴史的に見れば、この乱をきっかけに平氏打倒の令旨が全国の源氏や武装した大寺院を動かし、ついには源氏が勝者となったわけですので、頼政の起兵はある意味歴史のターニングポイント『転換点』であったといえましょう。

 頼政が平等院で憤死した際に、頼政の息子や養子たちのほとんどが戦いに敗れ自刃したり敗死しています。

当時位の高い方々は重婚を許されており、頼政にも正室が数人、側室もおりました。その室の方々の間に、多くの息子たちがいました(仲綱、国政、仲家、宗頼、政綱、兼綱、頼兼、広綱、頼尊、散尊、その他養子数名)。息子たちの中で、たまたま領地にいて親のクーデターに参加せず生き残った者もいました。その子らは鎮圧された後、平氏の力が及ぶ都の「検非遺使庁」に呼び出され、遠方に配流(いわば島流し)を沙汰されました。
配流されたのが誰なのか、諸説あり(次男の国政とも兼綱とも)、まだ調べきれていません。

(4)頼政の側室 あやめの前

 ここからがやっと本題です。頼政の愛室であった、「菖蒲御前」は、鳥羽院の女房(やはり院の側室か)でしたが、頼政が一目ぼれし、三年間手紙を送り続け、漸く鳥羽院からもらい受けた美女でした。このあたり詳しくは、Wikipediaの「香道」に「菖蒲香」もしくは、「平家物語」で語られていますのでご参照ください。

「あやめの前」が美人であったせいか、これまた頼政以上に全国彼方此方に伝説が残っています。
なぜそこに逃げて葬られたか、かなり怪しい伝承もありますが、その地域の方々は信じて祀られておられ、
その地には子孫の方もおられると伝わっていますので、誰も否定することはできません。

一例ですが、
  ▽全国にある菖蒲前ゆかりの地
         ////「カッコ」内の説明文は各地での観光PR文を引用させていただきました/////アリガトウ///
 
  @沼津市禅長寺 
   「菖蒲御前が源頼政、子仲綱の遺骨を持ってこの寺に潜んだという伝説から頼政堂が建てら
   れている。菖蒲塚に加え、頼政・菖蒲御前の墓地と伝えられているものがある。」
    【私見:頼政の子仲綱の母は源斉頼の娘。この伝説でいくとあやめの前は頼政の娘となって
    しまうが‥】
   「頼政を祀った頼政堂は沼津市最古の木造建築で、本尊の阿弥陀如来の左に菖蒲御前像
    (1139-1227)が祀られ、位牌には九華院殿本覚西妙大姉との法名がある。」
  A伊豆長岡古奈 金仙寺 禅長寺
   「菖蒲前は伊豆に逃げてきて一時期生まれ故郷の古奈に隠れ住んだ。後年、西浦村河内に
   禅長寺を建立し、西妙と号して夫の冥福を弔った。以前菖蒲屋敷と呼ばれる屋敷があり、菖 
   蒲滝、美女桜、三位松と金仙寺の堂の裏に崇敬した弥陀仏の石像があったらしいが今はな
   い。7月ごろ伊豆長岡温泉にて’源氏あやめ祭’が開催され菖蒲前のパレードが行われてい
   る。金仙寺境内に菖蒲前供養碑が建立されている。」
   伊豆長岡における菖蒲御前の歴史を語った、中野貢 著の 源頼政・菖蒲御前伝説とその回廊
  : 葛城の里伊豆長岡の歴史と文化  が出版されている。
   沼津市河内と下田市吉佐美に菖蒲御前の墓と伝わる石造物があるという。
  B新潟市 菖蒲山金仙寺
   「新潟県新潟市西蒲区竹野町にある前方後円墳で菖蒲塚古墳と呼ばれ、国の史跡に指定さ
    れている。古墳から勾玉、銅鏡、壺が発掘されている。また、これより少し離れたところにも
    「(猪)隼人塚」と名付けられた古い古墳が存在する。」この地方の伝承では、
    「頼政が自害した報を聞いた菖蒲御前は、家臣に連れられて逃亡の旅へ出た。諸国をさまよい、
    やがて越後の地に流れ着いた御前は、とある神社で休息することにした。
    御前は、この地で暮らす事にして頼政の菩提を弔いながら暮らした。墓は近くの金仙寺の
    山門前に移されている。」とある。
    【私見:古墳の埋蔵物からみて平安時代よりずっと時代は下る。おそらく地元有力者の墓
     ではないか。国が史跡として指定しているということは、ここが菖蒲前の墓として国がお
     墨付き?すると他県の遺跡は全て偽物ということになりますが。】
  C兵庫県西脇市 長明寺
   「頼政の墓の隣に菖蒲御前の供養等が祀られている。」
     D京都府北桑田郡周山村矢代
       北桑田郡は頼政が鵺(鵼)退治の褒美にもらった領地で、菖蒲御前の墓(五輪塔)がある。
  E広島県東広島市西条町御薗宇周辺(旧 安芸国賀茂郡西条一円)
   「頼政の最も信頼の厚かった猪早太と共に平氏軍の厳しい追及から逃れたといわれる先に、
       頼政の子が元服後築いた山城を始め、創建した寺院、あやめの前の遺物などかなり広域に
       足跡が残されている。あやめの前が没した近くの小学校のマークは菖蒲で毎年6年生が
       伝承のあやめ前の物語りを舞台で演じている。」

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当Blogでは、当方の自宅から車で凡そ40分程度の東広島市に、国内でも屈指のスケールで多くの伝承が残る、安芸国賀茂郡西条あやめの前伝説地(上記E)をご紹介します。足掛け3年に渡る、私自身の集大成です。わかる範囲で時系列的に記録し、伝説地の写真を掲載していきます。


             広島県東広島市西条町御薗宇周辺に伝わる菖蒲御前の伝説


(5)頼政自刃後の あやめの前 逃避行


●1180年2月安徳天皇即位  同4月以仁王、平家追討の令旨発す 同5月頼政挙兵
   頼政は挙兵の前に、配下の者で最も信頼していた家臣で遠江の住人猪早太(猪焦太あるいは
    猪野焦太直高とも・頼政と鵺退治 した弓の名人)を呼び、愛するあやめの前を西國に逃すよう
    指示しました。

●あやめの前は当時、3才になる男の子(種若丸)を抱え、お腹にも頼政の子がいました。
   猪早太はとり急ぎ京近衛河原の頼政邸に戻り、あやめの前と種若丸、乳母に護衛の30人程度 
   をつけ、陸路丹波路を経て南下しました。

  ・瀬戸内を航し、備後を過ぎ安芸の三原付近に差しかかりました。

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●山城国宇治にて以仁王、頼政が挙兵。しかし5月26日清盛勢2万の大軍によって鎮圧され、
   源頼政(76才)とその子源仲綱(55才)・仲綱の子宗綱等は宇治平等院釣殿に於いて自害
   して果てています。子の兼綱も敗死したと伝わります。

●あやめの前は、長旅の疲れか、乳母ともに乳が出なくなって困っていました。
   近くの海上に(水尻海岸)に、知子命を祀る岩があると聞き立ち寄って祈願することにしました。
   その岩は、神功天皇が新羅出兵(三韓征伐)時に無事をお祈りしたという海に浮かぶ「明神様」です。
   あやめの前は、乳の出と種若丸の健康を祈念しました。明神様は「安浦の稚児明神」と伝わり、
   今でも若いお母さん方が訪ねお乳がよくでるようお詣りされています。

------あやめの前が乳が出るよう祈った、海上に浮かぶ「安浦の稚児明神」----------

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 ※「安浦の稚児明神」を詳細に撮影した当BlogのURL
サブのサイト
http://hiroshimakagura.at.webry.info/201705/article_3.html


●あやめの前一行は、稚児明神に祈祷後、野呂川(一説では三原の沼田川とも)を遡りました。

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●途中で船を捨て、歩いて安芸の国は、賀茂郡(東西条)の下原村滝の岩谷まで逃れて来ました。
  頼政の子種若丸は満足に乳も与えられず、しかも長旅で体調を崩していました。
  あやめの前は仕方なく滝(千尋の滝)の側の祠に身を潜めて暫く看病しましたが、かいなく
  この世を去ってしまいました。
  あやめの前は自ら念仏を唱え、滝の上に種若丸を埋め、路傍の石を重ねて墓としました。

  その時の詠に、
         吾妻子や、千尋の滝と荒れ果てた、広き野原の、未や知るらむ
 
  と詠じたので、それからはこの滝は「吾妻子の滝」と呼ばれるようになったということです。


   ----------東広島市西条町御薗宇吾妻子の滝---------------------------------

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   ---------吾妻子の滝の側にたつ種若丸の宝篋印塔----------------------------

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 ※「吾妻子の滝」を詳細に撮影した当BlogのURL 
http://hiroshimakagura.at.webry.info/201705/article_2.html
 

●あやめの前は、滝の側の祠に暫らく潜んでいましたが、滝の近くの下原村宮本谷寿福寺(現在の徳行寺
  を訪ね、寿福寺の僧侶に身の上を物語ると、たいそう気の毒に思われ、一行の滞在を許されました。
 ・1180年10月18日、懐妊していたあやめの前に男の子豊丸(成人して水戸新四郎頼奥・頼興とも)が
  誕生しました。


        ----------寿福寺(現・徳行寺)---------------------------------------------
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 ※「徳行寺」を詳細に撮影した当BlogのURL

http://hiroshimakagura.at.webry.info/201705/article_4.html



(6)賀茂西条の知行と二神山城・築城

●時代は、以仁王、平家追討の令旨と頼政の挙兵が転換点となって、全国で打倒平家の波が寄せ、源頼朝、
  範頼、義経が平家を滅ぼし、源氏の時世となりました。

●1191年後鳥羽天皇の時、あやめの前は、夫頼政の勲功によって賀茂庄、賀茂一郡(西条地方、東西条)
  を賜り、東西条卿局として知行を許されました。あやめの前は大変喜び、「我が薗」という意で下原村
  を御薗宇村と名付け、この地名は現在に至っています。

●あやめの前と子・水戸新四朗は、御薗宇村の中心地にある二神山に山城を築き、麓に御里屋敷を建て、
 親子、家臣たちと平和なひと時を過ごしました。

        ---------西条盆地が見下ろせる二神山城跡----------------------------

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               本丸からのながめ 知行した御薗宇村
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 ※「二神山城」を詳細に撮影した当BlogのURL

http://hiroshimakagura.at.webry.info/201705/article_6.html



●下三永の古刹 福成寺の再建

 福成寺は、西条盆地を見下ろす約500mの山頂に建っている、奈良時代に建てられた寺院です。
 平安時代末期に平家がこの寺を砦とし、源平の戦いの舞台にもなり、寺は荒廃していました。
 あやめの前が再建し、数点の都から持参した品々を納めています。本堂内の厨子と須弥壇は15世紀に
 造られ国の重要文化財に指定されています。

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         あやめの前が手植えした 二本の松(夫婦松) と伝わっています。
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                     最近女松の方に落雷があり焼きこげ、現在は半分になってしまっています。

 ※「福成寺」を詳細に撮影した当BlogのURL
http://hiroshimakagura.at.webry.info/201705/article_5.html


●あやめの前は髪をおろし、仏門に帰依し’西妙尼 ’と名を改めました。


●水戸新四朗は、御薗宇にその土地の鎮守の神として、氏神社を勧誘しました。神社の由緒に水戸新四朗の名が残ります。


          ----------水戸新四朗が勧誘した、御薗宇の氏神社-------------------

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 ※「氏神社」を詳細に撮影した当BlogのURL
http://hiroshimakagura.at.webry.info/201705/article_8.html


●京からあやめの前を警護してきた猪早太に守らせた菩提寺・観現寺の創建

 あやめの前は、頼政の念持仏一寸八分 御本尊(聖観世音菩薩)として、吾妻子の滝から数キロ上流に一宇
 を建立しました。猪早太(猪隼太・猪野隼太とも)に寺を守らせ、寺を勝谷山観現寺と名付けました。
 猪早太は、ここで勝谷右京(勝屋右京とも)と名を改め観現寺を守り、ここで84歳で亡くなりました。
 側の裏山に、猪早太の墓といわれる宝篋印塔(市の文化財指定)が祀られています。

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 ※「観現寺」を詳細に撮影した当BlogのURL
http://hiroshimakagura.at.webry.info/201705/article_7.html



これまでが、東広島・西条に伝わるあやめの前伝説紀行の前篇でした。逃避行先賀茂西条の知行を許された
あやめの前‥

             再び以前のような幸せが訪れるのでしょうか。

    後編をお楽しみに…。

後編のURLを掲載します!
http://hiroshimakagura.at.webry.info/201707/article_1.html

                                --

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源頼政側室 菖蒲御前(あやめの前)東広島西条・伝説地紀行【前篇】 安芸.石見地方神楽紀行/BIGLOBEウェブリブログ
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