安芸.石見地方神楽紀行

アクセスカウンタ

zoom RSS 源頼政側室 菖蒲御前(あやめの前)東広島西条・伝説地紀行【後篇】

<<   作成日時 : 2017/07/04 12:01  

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0

源頼政側室 菖蒲御前(あやめの前)の安芸国賀茂荘(東広島西条)における伝説地紀行の後篇のご紹介です。
 ※前篇のURLを掲載しておきます。前篇を先にご覧いただけると嬉しいです‥。各々の伝説地の写真を掲載したURLもご覧いただければと思います。

前篇!
http://hiroshimakagura.at.webry.info/201705/article_1.html

                                   ---------

画像
                 水戸新四郎が勧誘した、氏神社の随身(右大臣)

 (7)二神山城の落城と逃避行伝説

●二神山城主水戸新四郎は成人後、厳島神社の神主家佐伯の娘を嫁にし、あやめの前と幸せに暮らしていました。1204年1月16日、豊田郡の土豪三浦掃部介(一説では平氏の流れを汲む土肥遠平・竹原小早川の祖らも)が、不意に攻め来たりて、城は全く不用意であった為防戦叶わず落城してしまいました。


             -----あやめの前、水戸新四朗親子が籠っていた二神山城(落城) -----

http://hiroshimakagura.at.webry.info/201705/article_6.html

画像


●水戸新四郎は、闇に乗じて7才になる薗菊姫を下原村観現寺の勝谷右京(猪早太の改名・勝屋右京とも)
 に預け、新四郎自身は福成寺に逃れ匿われました。観現寺に匿われた薗菊姫は、のちに勝谷右京の子
 彦太郎と夫婦になっています。
 
             ----新四朗が逃げ込んだあやめの前再建の 福成寺----

http://hiroshimakagura.at.webry.info/201705/article_5.html

画像

画像



              -----薗菊姫を預けた猪早太ゆかりの観現寺------

http://hiroshimakagura.at.webry.info/201705/article_7.html

画像

画像


●新四郎の公室(妻)と若君の豊之丞(3歳)は家臣の’一久治衛門(一玖次郎佐衛門とも)’に伴われ、妻の実家厳島神社の佐伯方に逃れました。 

●1214年1月7日に新四郎の公室は実家の佐伯家で病死しています。家臣の一久治衛門は公室の遺髪を切り取り、若君の豊之丞を伴って、水戸新四郎の逃れた先の下三永村福成寺に戻りました。

●新四郎は妻の死を悲しみ、五輪塔をたて菩提を弔いました。福成寺境内に、菖蒲前縁の墓として今に伝わっています。

               ↓福成寺境内にあるあやめの前関係者の墓と伝わる五輪塔群

画像


画像




●若君の豊之丞を連れ帰った一久治衛門は、その後’山崎屋新左衛門’と改名し、下三永の近く、下見村で帰農したとの記録が残ります。山崎屋新左衛門は、その後水戸新四郎の霊を祀って、下見村に’若宮神社’を創建しています。

 ---------水戸新四朗を祭神とした下見村(東広島市西条町)の若宮神社-------------

画像

画像


 ※「若宮神社」を詳細に撮影した当BlogのURL

http://hiroshimakagura.at.webry.info/201707/article_6.html


●水戸新四郎は豊之丞と家臣渡辺新之介を連れ新たな新天地を目指しました。途中、豊田郡(今の三原方面か)の西氏方に逗留中病にかかり、享年37才で波乱に満ちた短い人生を終えたと伝わっています。

●水戸新四郎亡き後、子豊之丞(水戸豊之丞頼任)は’野坂源左衛門’と改名し、今にその末裔が伝わっているようです。

---------------------

●一方、あやめの前は、二神城落城の折、親子散り散りになり、あやめの前の方は侍女の鶴らと愛馬で原村方面(現在の八本松・山陰の尼子や周防大内縁の曽場ヶ城山)に逃れています。

●逃れた原村の池の畔付近で、追っ手に追いつかれてしまいました。侍女鶴はあやめの前を逃がす一計を講じ、矢庭にあやめの前の着物を剥ぎとると、追っ手に「我こそはあやめの前なるぞ。汝らが悪党の手にかかるは源家の恥。最期のほどをとくと見よ」と立ち塞がった後、そばの池に入水しました。
追っ手に引き上げられ水死体の正体が知れた頃、あやめの前は愛馬で数キロ離れた場所(八本松の瀧の谷)まで逃れていました。その後、
この池は地元民が侍女鶴の死を悼み’姫ヶ池’と呼ぶようになりました。<原に伝わる伝説より>
姫ヶ池は、今は陸上自衛隊の演習基地の中で立ち入りを禁止され、人影なく静かに佇んでいます。


-------------------侍女鶴があやめの前の身代わりとなった姫ヶ池------------

画像


 ※姫ヶ池」を撮影した当BlogのURL

http://hiroshimakagura.at.webry.info/201707/article_3.html



●逃れた先の瀧の谷にさしかかった時、乗っていた白馬がほろほろと涙を流し、「あやめの前さま、もうすぐ追っ 手においつかれてしまいます。どうかわたしのお腹の中にお隠れください。」あやめの前は、愛馬に詫び、馬の 腹を切り裂いて、腹の中に隠れて、追っ手を欺きました。
 追っ手はあやめの前の愛馬が死んでいるのを見て、菖蒲の前も一緒に死んだものと去って行きました。
 追っ手が去った後、馬の腹から出て、曽場ヶ城山の深い谷合い(小倉山)に郎党と逃れました。
                                                    <瀧の谷の伝承より>


-----------瀧の谷の愛馬の腹に隠れた広場と、後に愛馬の霊を慰めた(瀧の観音)馬頭観音神社---

画像


画像


 ※「瀧の谷観音」を詳細に撮影した当BlogのURL

http://hiroshimakagura.at.webry.info/201707/article_7.html


-----------もう一つの馬頭観音はJR八本松駅の裏に移設され疱瘡神社として奉られた-----------

画像


                 あやめの前の愛馬
画像


                 馬頭観音
画像


 ※「疱瘡神社/馬頭観音」を詳細に撮影した当BlogのURL

http://hiroshimakagura.at.webry.info/201707/article_8.html


-------------------------------------------------------------------------------------------



 (8)あやめの前(西妙尼)の終焉

●侍女鶴の身代わり入水や、愛馬の腹の中に隠れ生き延びることができたあやめの前は、知行先賀茂西条の中心地から南西方面の八本松近く、曽場ヶ城山(607m)深い谷に家臣たちと逃れ、身を潜めました。

画像



 そこからは、これまで暮していた二神山城を正面に西条盆地が一望できました。京時代に住んでいた都の
 小倉の里に似ていたことから、小倉山、潜んだ深い谷を小倉大谷と名ずけ、家臣と共に谷に小さな庵を結
 び、頼政をはじめ、落城時に犠牲になった次女や愛馬の菩提を弔いました。

画像



●1204年8月27日、死期を悟ったあやめの前は、家臣たちに「私はこれから食を絶ち庵に籠って篠笛を吹いて死期を待つ。笛の音が途絶えるまで近づかないで。」
と言伝え、庵に入りました。六日経ち、笛の音は徐々に細くなり、やがて静かに消えてしまいました。

      辞世の歌
             定めなき 世をうき事に見かぎりて
                      菩提の道に入るぞ嬉しき


●あやめの前をみとった家臣たちもその多くがあやめの前の亡骸近くで自害して果てていきました。供養の役割りで生き延びた数人は、近くの村人の助けを借り、近くに立派な石崖を築き、あやめの前を祭神とした神社を建築し、小倉神社と名付けました。
おやめの前が没した場所に宝篋印塔を、後を追った家臣には五輪塔をたて、今でも周辺の里人が清掃を欠かさず、御霊を慰めています。


----------あやめの前(西妙尼)終焉の地、小倉山 小倉大谷に立った小倉神社 -------------

画像


 ※「小倉神社」を詳細に撮影した当BlogのURL

http://hiroshimakagura.at.webry.info/201707/article_2.html


----------あやめの前(西妙尼大姉)を奉った宝篋印塔と、家臣団の五輪塔群 ---------------------

画像



画像


画像


 ※「あやめの前の墓」を詳細に撮影した当BlogのURL

http://hiroshimakagura.at.webry.info/201707/article_9.html


●あやめの前の没後、あやめの前の遺志により1206年頃、家臣の池田左衛門が広島市内、二葉の里(山陽新幹線広島駅裏)、二葉山麓に神社を創建し、修理料として椎木を付けたので椎の木八幡宮と称しました。その後、神社は広島城から東側全ての氏神とされ、山が鶴が羽を広げているように見えたことから「鶴羽根神社」と呼ばれるようになったそうです。<鶴羽根神社御由緒より>

 鶴羽神社のある二葉山は椎木(しいのき)の大木が生えており、源頼政が平清盛と厳島神社参拝の際、
 二葉山の椎木群生をみて、私も早く’しい’(椎)の位から三位(まつりごとが司れる従三位の官位)に
 あがりたいものだ‥と強く念じたと記録されています。これを知っていたあやめの前が、西条を知行した
 際に、家臣に遺志(二葉山に神社創建)を漏らしていたようです。

      のぼるべきたよりなき身は木の下に 椎(四位)をひろひて世をわたるかな
                                                   頼政
                                           平家物語 「鵺」より




----------------あやめの前の遺志で家臣が建てた 二葉の里 鶴羽根神社----------


画像

画像


 ※「鶴羽根神社」を詳細に撮影した当BlogのURL

http://hiroshimakagura.at.webry.info/201707/article_4.html



----------------生き残った頼政の子・国政の配流先、豊田郡小田郷----------------------------
                                     「小宇治長者墓所


●平等院で、頼政一族は大方果ててしまいましたが、中で、国政だけは、知行先に残っていて、挙兵に加わっておらず、生き残りました。国政は、頼政の養子と書かれたものもあります。
京で検非違使によって、遠い西の国に配流が決まりました。

配流先は、なんとあやめの前が逃げた先から近い、安芸国豊田郡小田郷(現・広島県東広島市河内町小田)でした。国政は、名を「山縣次郎」と改め、9代までこの地で生活し、里人に都の文化を伝え、小宇治長者と崇められています。
紹介の墓は、国政ゆかりの墓地で、地元では「小宇治長者墓所」と呼んでいます。

画像

画像



 ※「小宇治長者墓所」を詳細に撮影した当BlogのURL

http://hiroshimakagura.at.webry.info/201707/article_5.html

                          安芸国豊田郡小田郷


*このあたりで、あやめの前東広島伝説の物語は終了です。
 次の機会で、東広島を中心に広域にわたって伝承された伝説の検証を行いたいと思っています。
 お楽しみに…

--

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
源頼政側室 菖蒲御前(あやめの前)東広島西条・伝説地紀行【後篇】  安芸.石見地方神楽紀行/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる