人間魚雷・特殊潜航艇「回天」基地を訪ねて 徳山 大津島・平生  No.1

山口県の特殊潜航艇『回天』の基地跡と記念館を訪ねました。
 行き先は、徳山の周南市大津島(回天特別攻撃隊大津基地跡)~平生町(平生回天基地跡)です。
その後、交流館の方に教わった平生町歴史民族資料館で、本物の回天(胴体部分)を見学しました。
 大津島は学生の時に一度、社会人のとき、フィルムカメラを持って一度渡ったことがありますが、
 数十年ぶり三度目となります。
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回天は、数年前映画’出口のない海’で取り上げられましたが、「永遠のゼロ」で着目されたゼロ戦での
特攻より、現代の若い層にはこういうことがあった程度しか認知されていないのではないかと思います。


■回天とは

わが国における小型の潜水艦の歴史は古く、甲標的(甲型特殊潜航艇)といって、
真珠湾攻撃にも出動しています。
甲標的は、バッテリーの発動機方式でしたが、後にディーゼル式の派生型も登場
しました。攻撃用の武装は業雷管を前方に二基搭載し、二基の発射管から魚雷を
発射すると、自爆装置で自爆させるか、基地や母艦に寄航し再度魚雷を装填するしか
方法がありませんでした。
一方の回天は、人間魚雷の名通り、魚雷そのものに人間が乗って操縦する、発進す
れば生還不可能,必死必殺の特攻兵器として開発されました。

幕末から明治にかけてのわが国の大維新のことを、回天という言葉で表しました。
「回天:(天をめぐらすの意)時勢を一変すること。衰えた勢いを盛り返すこと。」小学館日本国語大辞典より
第二次大戦も末期、戦局を打開する目的に、人間が操縦する魚雷を開発しました。
当時、世界一の性能を誇った超大型魚雷「九三式三型魚雷(酸素魚雷)」をベースに、
特攻兵器とし、これに幕末の軍艦’回天’の名を冠しました。


■人間魚雷’回天’
回天の搭乗員として訓練を受けたのは終戦までに1375人にものぼり、出撃他訓練中の事故や
整備士もあわせ145人の方々が亡くなられています。
(回天は伊号など大型の潜水艦で運ばれましたが、その母艦そのものも回天を降ろした後、
砲撃や魚雷で沈没し、多くの方々が犠牲になっておられます)
亡くなられた方々の平均年齢は21、22才でした。
大戦末期、すでに日本近海の制空権も制海権も連合軍に奪われてしまっており、本土決戦も近いと
いうこともあって、最初は反対していた軍司令部も、人間が武器になって敵に突っ込むという、兵器
製造を許可しました。
しかし、ゼロ戦の特攻のように、回天は華々しい戦果を上げることはありませんでした。
回天が出撃した時期には、すでに米国はレーダを発明していたことや、回天そのものの
機能が低く、1本の潜望鏡でしか、目標を見ることができなかったからです。
敵艦を見つけて発進しても、隊員の感で突っ込んでいたことから、波の影響や敵艦の速度
に影響され、非常に精度に欠ける兵器だったわけです。
しかし、一度発進すると、ほとんどが海底に沈んだり、母艦自体が敵艦に沈められ、回収
ができず、成果を上げられず亡くなった方も多いと聞きます。


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      早朝6時、落ちかけた満月に向かって車を走らせました。

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      山口県の徳山港、大津島巡航フェリー乗り場に到着、午前8時15分


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                        早朝にかかわらず徳山の工場からの煙がすごい

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          本日、大津島にいく「鼓海Ⅱ」号です。
               出航までに時間がありまだ船も眠っています。

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            9時半発の船で、帰りは島から11時7分発で戻りたいなあ…と思いつつ
                         馬島まで片道690円です。

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           徳山港を出て、最初の寄港地’馬島’が目的地です。
                           大津島と馬島は繋がっています。


■出航まで時間があったので、フェリー乗り場に飾ってあった回天のポスターを撮影しました。
 このポスターは、2006年に公開の松竹映画『出口のない海』のスチール写真です。
 出演者は、歌舞伎の市川海老蔵さんで、脚本は山田洋二さんでした。
 大津島の回天基地跡でも撮影されました。

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                  いよいよ出航です。
                  船には、回天基地を目的に行かれるだろう男性客が1名と、数人の釣り客
                  だけでした。

■大津島(馬島港)到着

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             大きな回天の看板が出迎えてくれました。
              この島には何十年ぶりかの上陸です。


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■島には公共交通機関はありません。徒歩になります。
  まずは、「回天記念館」に足を向けます。島中、水仙の花が咲き綺麗でした。
  水仙の花は、こころなしか、寂しく私の眼にうつります。

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               記念館までの上り坂。右の壁は当時のままです
               兵舎から発射基地へ、出航する特攻隊員達が歩んだ道です。

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             「回天記念館」

          ■この場所は、かつて隊員達の木造の質素な兵舎が建っていたところです。

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全長14.7m、直径1m、排水量8t、炸薬量1.5t、酸素魚雷を改造
魚雷の本体に外筒を被せて気蓄タンク(酸素)の間に
小さな独り用のいすを置き、その前に操船装置や調整バルブ、
小さく短い潜望鏡を設置した。最高速度は時速55km/hで
発射後は約23Kmの航続力があった。

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       ネットで評判の館長さんに300円支払い記念館の中へ

       「こんにちは。遠くからよくいらっしゃいました。」
       「中は撮影いいですよ。たくさん撮って帰ってくださいね」元気な声で感じよく
       ご挨拶いただきました。多くのBlogで、館長さんの好印象をよく目にします。

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■’回天’考案者の黒木大尉について

私事ですが、2012年9月に、当方のフィッシングカヤックの新艇の進水式を行うべく、
立ち寄ったのが、黒木大尉が考案した特殊潜航艇を試験したり小型の特殊潜航艇’蚊龍’
で訓練したQ基地跡でした。
回天を最初に設計し製造したのは呉工廠でしたが、量産するにあたり、倉橋島本浦崎
で生産が始まりました。これがP基地です。P基地で造られた回天は、真向かいの
Q基地で試走したり、乗組員の訓練を行っていました。
このURLが、以前カヤックのご紹介をしたBlogです。

http://hiroshimakagura.at.webry.info/201209/article_5.html


黒木大尉は、仁科大尉らとともに人間魚雷構想を上申し、戦争末期に漸く
軍部から製造を認められた、いわば回天の生みの親です。黒木大尉は、
人間魚雷の製造の為、呉の海軍工廠魚雷実験部に配属となりました。
呉工廠で造船後、P基地、Q基地で改良や施航を繰り返し、山口の大津島の
訓練場に移られました。したがって、黒木大尉は呉にはゆかりの軍人さんでした。

黒木大尉は、1944年9月6日ここ大津島の回天潜行訓練の際、樋口大尉と2名で乗船
しました。夕刻訓練から帰ってきた、仁科大尉の「今日は湾の外は波が高いので
出航はやめたら」という忠告を「これくらいの波で使えないなら、実戦では役に立たない」
と言って、樋口大尉と回天で湾外に出て行きました。当時、湾外は相当時化ており、
回天は波による急激なダウンによって水深18mの海底の泥に1/3突き刺さって浮上でき
なくなってしまいました。
7日の朝、回天は引き上げられましたが、艇内の酸素がもたず、酸欠での殉職でした。
黒木大尉と樋口大尉は、亡くなる寸前まで、メモを書き続け、回天の問題点を
克明に記録しました。
以下、黒木大尉のメモ(遺書)の事故報告文(1枚目)と、最後の文書です。

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19-9-6、回天第一号海底突入事故報告、当日18時12分、樋口大尉操縦、黒木大尉同乗ノ第一号海底ニ突入セリ.前後ノ状況及ビ所見次ノ如シ.
一、事前ノ状況
当日徳山湾内ニテ樋口大尉ノ回天操縦訓練ニ同乗、1740発射、針路蛇島向首、1800頃180度取舵、大津島『グレーン』ニ向ケ帰途ノ途中、1810ヨリ20節潜航、調深5mニ対シ実深2m、前後傾斜D2~3度、時ニD4~5度トナリシコトアリ.当日第三次操縦訓練同乗者仁科中尉ノ所見ニ波浪大ナルトキ、同様20節浅深度潜航中、俯角大トナリ、13mマデ突込ミタル由ノ報告アリ、之ヲ想起シ充分ニ注意ナシアリシ所、約二分ヲ経過シ、浮上ヲ決意シ、操縦者ニ浮上ヲ命ゼントシテ傾斜計ヨリ眼ヲ離シ、電動縦舵機等所要個所ニ注目シツツアリシ時、急激ニ傾斜大トナルヲ感ゼルヲ以テ、傾斜計ヲ注目セルニ、D一杯トナリアリ、察スルニD15度程度 ナラン、直チニ速力ヲ急速低下セシモ、若干時ノ後、猶傾斜ノ戻ル気配ナシ.此ノ間操縦者ニ深度改調ヲ0トナスコトヲ命ゼシモ間ニ合ハズ、傾斜計ヲ見ルニ D7度、深度18mナリ、海底ニ突入セルコトヲ知リ、直チニ停止ス.突入時衝撃ナシ.

・(途中省略)

2200壁書ス、呼吸苦シク思考ヤヤ不明瞭 手足ヤヤシビレタリ
0400死ヲ決ス 心身爽快ナリ、心ヨリ樋口大尉ト万歳ヲ三唱ス
  
      死せんとす益良男子の悲しみは 留め護らん魂の空しき

黒木大尉は、4日後の23歳の誕生日を迎えることはできませんでした。
黒木大尉と共同の考案者、仁科中尉は、このメモや遺志を受け継ぎ、
1944年11月8日の自身の出撃まで回天の改良に尽くしました。
でも、一旦出撃すると、海中では中から脱出は不可能でしたが、これは
最後まで改良されることはありませんでした。
当Blogの後半、本物の回天の写真でもご紹介しますが、人のお尻が
出るかでないかの狭いハッチがひとつ。しかも海中では水圧がかかって、
中からは上に開きません。助かることを最初から考えて造られていなかった
ことが覗えます。

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■伊号潜水艦と回天
回天は、潜水艦にこのようにして搭載(5艇)し、敵艦の近くまで寄って、
回天を切り離します。特攻隊員は、母艦から回天の下ハッチに上がります。
回天は、その他にも’千代田’という特殊潜航艇を運ぶ専用船で
運ばれることもありました。こういった船のほとんどが、呉工廠で
造られました。
余談ですが、私の曽爺さんは呉工廠の技師で、軍艦を造っていました。
また曽爺さんの長男(私の叔父)は、海軍兵学校の卒で、大戦末期、呉
から輸送艦で出航し、南洋あたりで爆雷を受け船ごと沈没し、遺骨も何も
残りませんでした。
身近でそんな戦争の体験談を聞いて育ってきているので、人一倍回天等
に思い入れが深いのかもしれません。

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--------------------No.1はこのあたりで。次回は基地跡を訪ねます




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この記事へのコメント

Rancho
2014年02月19日 13:36
ししさま、こんにちは
寒いですね^^いかがお過ごしでしょうか?

ところで…
重みのあるところを訪ねられたのですね。

手紙や扇屋以下の文章
 皆様あり難う
 楽シイ二十年ノ人生
 …
 笑ッテ突込ミマス
で、涙があふれてきました。
 死せんとす益良男子の悲しみは 留め護らん魂の空しき  
           乱鳥合掌


ししさん、
たいへん寒いのでお身体に気をつけて下さいね(*^-^*)
Ranchoさま、SiSiです。
2014年02月20日 08:33
いつもコメントや気持ち玉を頂戴しありがとうございます。
大津島の旅、一回目のご紹介は如何でしたか。Blogにするについては一時躊躇いもあったのですが、たった数十年前の事実を、知らない方にひとりでも知っていただきたくて、作成しました。(これでも行くまでに数冊の本を入手し読んで頭に入れていったのですよ)時代がそうだったから、と一言で片付けてはならないですよね。戦争遺跡は負の遺産のイメージが付きまといますが、いつまでも残していって欲しいものです。
隼人
2017年07月22日 12:16
「我、未だ生存せり」

人間魚雷・回天の乗組員の最期の言葉らしい。

潜望鏡に刻まれていたとか~? 

"夕焼~け、小焼け~の赤とんぼ~・・・・"

段々と、気が薄れて行く姿には~胸が詰まります。

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